WALTHAM(ウオルサム)-腕時計 評判
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アメリカで最も古い歴史を持ち、第16代アメリカ大統領のエイブラハム・リンカーンも愛用していたウオルサム。
19世紀半ばにアメリカで時計産業が芽生えた。
この時計産業の旗頭が1854年にアーロン・ルフキン・デニソンが創設したウオルサムであり、アメリカ方式といわれる互換陛のある部品を使った機械による大量生産を確立した。
ウオルサムはアメリカ南北戦争(1861年~1865年)以前に創設されたアメリカでも最も古い時計メーカーだ。
第2次大戦中、軍需品の生産に全力を注いだウオルサムはその後の経営難から、1954年スイスに本拠地を移すことになる。
こうしてアメリカ的な合理的生産方式の伝統に加え、スイスの技術や繊細さを合わせ持つ芸術作品を次々と生み出すメーカーとして今に至る。
スイスでは微小部品の製造から組み立てまで、すべて手作業で行われ、そのため全く同じものは作ることができず、部品の交換も不可能だった。
つまり修理ができなかったわけだが、アメリカでは機械によって同じ部品を大量に作る方法が編み出された。
ちょうど鉄道が発展した時代で、決まった時間に運行される汽車に乗るには時計が必要だった。時計の需要の高まりと大量生産は時期を同じくしたというわけだ。
日本では、江戸時代に第15代大統領ジェームズ・ブキャナンより14代将軍の徳川家茂に贈られ、明治維新後にも鉄道時計として採用されるなど、日本とも古くから関わりがあった。
1954年からはスイスに本拠を移して、より高品質な時計製造に邁進。
メンズ、 レディスともに意欲的に新型を開発し続けている。
ウオルサムを起こしたのは、アーロン・ルフキン・デニスンという人物である。この人は相当、型破りな人だった。1850年、アメリカ・ボストンの絵のような美しい村、ウオルサムに赤レンガの工場を設立。
が、ウオルサム社第1号の製品"8日巻きポケヅトウオッチ"はこれより早く、1849年に登場しているのである。これを説明するためには、少々デニスンの歩みを追ってみなければならない。
1812年、デニスンはメイン州フリーポートに生まれた。一族はフランスの出身、16世紀の宗教迫害に耐えかねてイギリスヘ移住、17世紀末には一族のひとりがとある理由でアメリカに落ち着いた。このデニスンー族ではじめてアメリカの地を踏んだ男は船主となり相当資産を残したらしいが、ウオルサムを起こしたデニスンの父は靴屋だった。
このデニスンはもとから機械に興味があったのだろう。17歳の年、靴屋ではなく時計屋に奉公した。いつでも時計製作に関する思索にふけっている若者で、3年間の奉公中に〈時計各番車を製作する自動切削機)を発明して時計業界を驚かすなどという天才ぶりを早くも発揮したりしていた。
3年後、ボストンに出たが、デニスンは「無給でもいい」と時計店に転々と奉公、さらにニューヨークではイギリス人・スイス人などの熟練時計技術者から技術をがむじやらに学んでいった。
昼は奉公、夜は時計製作、製作機、さらには時計工場に至るまでの細かい計画などを立てながら彼は時を過こしていった。一時、時計修理店を開いたこともあったが、彼は「これは時間の浪費、店で働く方が勉強になる」と判断してすぐ見切りをつけた。
27歳のとき、ボストンのワシントン街の一角で時計修理と販売の店(ALデニスン・カンパニー〉をはじめた。
だが彼の夢は大きい。当時の時計、つまリスイス製・イギリス製の時計は手作りのため部品の寸法違いでアセンブル不能なことがしばしばだった。
デニスンの頭の中にあったのは、はじめからイギリスやスイスにはない"精巧なウォッチ生産の機械化″であったのである。27歳からの3年間、彼は彼の夢に協力してくれるパートナーを探し歩いた。ついに出会ったのが、ニューイングランドでクロック、ミシンなどを製作している「E八ワード・クロック・カンパニーJの八ワードである。
当時、ボストンのあるニューイングランドという土地はすでにスピリング・フィルド・ライフル銃やクロックの歯車などを機械で大量生産していた。彼はこの土地は必ずやパートナーがいると睨んでいたのである。ふたりは意気投合し、1849年、もうひとりを加えて八ワードの工場の隅に〈デニスン・八ワード・デビス社〉を設立した。
ここでちよっとデニスンという人の性格を見てみよう。時は19世紀半ば。アメリカ資本主義の発達の時代である。ここにデニスンという「いまだ手作りが幅を利かせる、時計という産業を機械化しよう」と大きな夢を抱く研究者がいる。
20年間毎日、起きている時間のすべてをひとつの研究に没頭できる男。学ぶ対象といったら、先達が手で作った時計と技術者たちの口伝えだけ。時計製作機械のことを書いた本など、当時の世の中のどこを探したつて存在しない。しかし彼は夢が実現することを微塵にも疑わなかった。
彼は夢実現のためには何ものをも惜しまないという行動様式や性格から「ポストンの狂人」とあだなされていたが、それは彼に与えられた敬称といつていい。狂人とは天才のペツトネームなのである。
デニスンは〈デニスン・八ワード・デビス社)設立の年、イギリスに渡った。まだ自社ではとてもまかない切れない素材と部品買い付け、そしてアメリカにはない金メッキ技術修得のためである。このとき彼がイギリスから送った手紙には、イギリス時計産業がいずれアメリカに席を譲ることになるだろうことを予言する、みことな指摘がある。イギリス時計産業ではムーブメントの製作・組み立てがいくつもの下請け先によって行なわれている。
ムーブメントは1力所で完成されることなく、何力所もの手を経てやつと完成する。下請けから下請けへ、かざりないタライ回しだ。しかも手作り、これで時計ができるほうが不思議。製法は幼稚、組織は不要に複雑化。おまけに職人はだらしないの一言に尽きる。ゆえにわれわれに勝利あり、との確信を得た。イギリス時計はいずれ衰亡する時がくる。
話を戻して、(デニスン… …社〉は"8日巻き″の次に`36時間巻きレバー・ポケット・ウオツチ″を発売した。"8日″ははじめ進み、8日目が近付くと遅れるという代物だったらしいが、この36時間は一大センセーションを巻き起こしたほどの大成功を収めた。
このとき、順調に走りはじめた(デニスン… …社)にある問題が持ち上がった。外注製作させた製作機械がデニスンの設計図通りに作られていなかったのである。ここでついにデニスンは自らの社で時計製作機械までを`作る″ことにした。
とにかく、こと時計となると、何分にも熱心なデニスンである。彼は設立後1年経たないうちにして〈デニスン… ¨社)のあるロツクスベリーからの移転を考えた。今の10倍の敷地がほしいこと、ロックスベリーはホコリが多過ぎて空気が悪いから時計作りには適さない土地であることがその理由だった。時計店・外国からの熟練時計技術者・パートナーの次にデニスンが探してあるいたのは、"時計作りにふさわしい土地″だったのである。
そして見つけた最良の地がボストンから西へ20kmのところにある目がさめるほどに美しい土地、ウオルサムだった。ウオルサムとは"歓迎する森の家″とでもいった意味合いで、デニスンはそこの農場地を買い入れた。ついにウオルサム社設立。1850年のことである。
しかし実際に工場が稼働したのは1854年。日本でいえば日米和親条約締結の年、海臨丸日本出立の6年前のことである。職人90名。稼lElしてからは週に30個の時計を作った。これは非合理的な手作りに甘んじている当時としては驚異の製作スピードだった、デニスンを技術最高責任者、八ワードを経理財務最高責任者、営業はふたりでと決めて、社は順調に発展していく。
まず当面の目的はコストダウンである。しかしウオルサムの運命に不況が襲いかかる。1857年、デニスンの夢を賭けたウオルサムはあえなく倒産してしまったのである。実はこの影には"デニスンの開発にともなう経費の使い過ぎ″というのがあった。デニスンは根つからの興味の尽きない研究者であり、優秀な経営者ではなかったのである。デニスンは創業わずか8年で社を作」産させてしまったが、しかし彼は社員に慕われる人物だった。社内は和気あいあいとまとまり、世間からは"ウオルサム・コミュニティ″と呼ばれるほどだった。
社宅無料という前代未間のことを仕でかしたのも、職人可愛さからで、デニスンは職人をほんとうに可愛がつていた。ウオルサムは倒産したが、それをあつというまもない早業で買い占めた男がいる。それが第2の人物、R.E.ロビンスである。
このR.E.ロビンスはウオルサムの発展時期の社長を勤めてウオルサムに貢献した。社長就任期間は1857年から約30年間。デニスンが学者肌なのに対して、ロビンスは多くの分野での豊富な経験を持つ事業家肌の人だった。彼の経営理念は「事業とは投資した資本が一定期間内に戻つて利潤を生むものである」。彼はきわめて合理的な人で、まず多くのモデルを整理して製品の画一化を計った。たったひとつの製品のみで勝負しようというのである。
開発費はストツプ。合理化によるコストダウン。しかしこの作戦は功を奏し、ウオルサムはわずか1年で黒字経営に挽回した。そこでやつとロビンスはニューモデルを売り出すことにした。マニアなら喉から手が出る"バーレット″"アップルトン・トレシー″"シー・テイー・パーカー"である。これらの3つのポケツトウオツチは当時の価格で26~
40ドルという高価な時計ながら競争相手がなく、まさに独占市場並みの大当たりをした。
話は変わるが、このとき初代社長デニスンはどうしていたのか。ロビンスが引継いだ当初、デニスンは追われた会社の工場長に就任した。デニスンが築き上げた複雑に機械化された工場を動かせる人物など、デニスン以外にいなかったのである。彼は名誉・メンツなどより心から研究をしたい人だった。
社員たちは他の仕事にも忙しくて、社には週に1度顔を出すか出さないかのロビンスなどに到底なつくわけはない。一方、デニスンは今まで通り慕われる。彼らのデニスンに対する態度はロビンスの鼻に付くところとなり、これが、ふたりの間に摩擦を生じさせた。はじめは分担を守ってウオルサム発展に尽くしていたふたりだったが、南北戦争勃発で天下のウオルサムにも不況の波が押し寄せてきたある日、デニスンは"安い兵隊用″の時計を作ることを提案。ロビンスは分を出て経営に口を出したことを口実に、あつさリデニスンの首を切つてしまった。
その後、1876年、米フィラデルフィア世界万博開催。ウオルサムは"カナと番車の製作機械ハ2200個のムーブメント″"金メッキ・金ムク・銀ムクケースのコンプリ時計″などを発表し、その優秀さはイギリスから海外に知らされることとなり、広く海外へ出張所を設置しはじめた。
このときデニスンはイギリスで時計ケースの工場を起こして成功していた。フイラデルフィア万博を機に、ついには本家イギリスのロンドンに出店したウオルサムの初代支店長に派遣されたのが、かつてデニスンが可愛がつていた彼の片腕、デニスン時代に副工場長を勤めたスラットンという男だったのである。
彼はデニスンをロンドン支店に引き込もうとしたがロビンスがいい顔をするわけがない。しかしスラツトンはデニスンの作った素晴らしい銀製ケースにウオルサムのムーブメントを組み込んだ。その美しく正確な時計はロンドンで飛ぶように売れ、ロンドン支店を3年で売上350%増にまで発展させたのである。やがでロンドン支店の株の半分以上をデニスンが持ち、支店に働く彼の息子は口ンドン支店長に昇格することになるのである。
高価な時計を種類を少なく独占販売したロビンスもやがて交代の時期を迎える。"高価な時計〃は彼の経営方針であったが、1度だけ、南北戦争の不況には勝てず、安い兵隊用ポケットウオッチ"`工レリー″を作つている。10ドルの時計で、これが大売れしたおかげで彼は不況の風を受けずに済んだのだった。
次に登場するウオルサム第3の人物はECフイッチである。彼は競争の時代のウオルサムを担うことになる。社長就任時期は1886~ 1921年。当時、スイスブランド、アメリカブランド入り乱れての時計業界の競争は日に日に激化していた。ロビンスはこの荒波に勝っためにパートナーを求め歩き、ついに「商売の神様」と称されるフィツチに出会う。
フィッチは商売の勘に鋭い、マーケットの二―ズを勘で的確に判断できる、そしてそれを売る才覚も持ち合わせていた人物だった。まず彼が提案したのは、ロビンス策の反対、多種多様なコレクションの充実である。作り上げたムーブメントは35種。今でいえば35など"微々たる″にも入らない数だが、当時35のムーフメントを作り、売るというのは、ウオルサムがいかに優秀な技術陣をもっていたかの現われである。新しいモデルは消費者の二―ズにピタリとはまり、ウオルサムにかつてない販売実績を上げることになる。
彼の読む今後の動向も当たり続けたのだが、ついにフィッチ社長就任から20年後、昇り調子で競争に勝ち続けてきたウオルサムもついに限界がきた。販売の伸びが止まり、販売・増産・資金繰りに狂いが出る。生産過乗Jとなったのである。フィッチは商才には長けていたが、経営管理は得意とはいえなかったようだ。ここで第4の人物が登場する。
第4の人物とは、FCデュメイン。1923~ 44年、社長就任。財務畑出身の実業家で財政管理に抜群の才能を持ち、しかも時計技術に関する知識もあつて生産指導もできるというオールマイテイな人物だった。
彼のしたことは"節約と能率化〃である。まずは経理部などの数10人いたスタツフをひとりに。企画部さえもひとりに削減。その他、連絡の簡略化、記録の集約化、「1日1000ドル節約の励行」……。デュメインのこの強引な策はダフついていたウオルサムの贅肉をみことにそぎ落とした。ここまですればすいぶんと敵も作ったことだと想像されるが、それは違った。
残った人間は「我こそはわが社に必要な人物」とがんばったのである。その頃、ウオルサムに大変革が起きている。ポケットウオツチから腕時計への転換である。第1次大戦当時、時計はポケツトからリストヘと移りはじめていた。それにいち早く気付いたのがスイス時計業界である。
デユメインも社の90%を腕時計に切り替えることを俊敏に決断した。またモデル数もシェイプアップした。147モデルを36モデルに、しかしそのかわり、彼は4代ロウオルサム社長として新たな挑戦をはじめた。"ウオルサム・クオリテイーの確立″である。ウオルサムにはデニスンのたたき上げた`技術″というかけがいのないベースがある。デユメインは技術者たちに「ウオルサムの時計の品質を極限まで上げる」よう"挑戦〃させたのである。至上命令を与えられて、優秀な技術陣は発奮した。そして世界でもつとも優秀な、品質管理の手本とまでなる完璧なウオルサム・クオリテイーを築き上げたのである。
しかしデュメインの素晴らしいところはそれに法外な値段をつけようとしないことである。彼の販売理念は"商品がよく、価格が適正であること″これによつて、すでにウオルサムを信奉してぃたューザーに加えて新しい愛用者を増やしていったのである。ここまで優秀さを誇ったウオルサムもついに第2次大戦後には憂き目を見た。
自ら進んで軍需工場となったわすか数年のブランクが結局、戦争に参与しない中立国家スイスとの競争に席を譲る結果を招く。しかしこのときウオルサムの作った自動車・航空機などの計器類は非常に優秀なものであり、今もアメリカ国家へのウオルサムの貢献は大きく評価されている。
戦後の勝利をウオルサムからもぎとったスイス時計産業。スイスはますアメリカに勝つ前にイギリスを追い越した。それは、産業革命が起こった国でありながら、手作りを頑固に踏襲したイギリス時計産業を尻目に機械化に踏み切ったからである。
そのスイス時計業界の機械化の指導に当たったのが当のデニスンであるといったら、まったくひとりの人間の人生をみるように皮肉なことではないか。1380年代、スイスは生産量ではアメリカを圧倒していたとはいえ、精度だけはウオルサムにかなわなかった。
ウオルサムの自動・半自動の部品製作機はスイスの垂涎のまとだったのである。このとき、スイスの「トレモント・ウオツチ社」がイギリスにいるデニスンを見つけた。トレモントがデニスンを招聘したい意思を伝えると、彼は喜んでそれを受けた。彼はスイスに渡り、約2年間、機械の実施指導を行なう。これがスイス時計業界機械化推進の裏話である。彼の時計製作への情熱は、経営と両立するものではなかったかもしれない。でも、世界の時計産業を確実に発展させたのである。
ウォルサム・フィガルゴ Ref.SW45-02062STM
89万2500円
デュボア・デプラ製の自動巻きクロノメーターCal. 30030を搭載したドライバー仕様のクロノグラフ。個性的なフレアードラグや、すり鉢状設計のタキメータースケールが印象的だ。
ガード付きミリタリー・ウオッチ
時価
ウオルサムは腕時計に目をつけたのも早く、すでに第1次世界大戦で腕時計を軍に納入していた。しかし、当時はまだ、時計の耐久生が乏しく、衝撃から守るためにガラスの上にカバーがつけられた。19世紀末のボーア戦争でイギリス兵がポケットウォッチにベルトをつけて腕にはめたのが実用的腕時計の始まりである。それを早速、取り入れたのがウオルサムだ。
フリーメーソン
45万円
フリーメーソンとはもともと8~ 9世紀頃に結成されたヨーロッパの建築業者の組合で、中世になると石工、大工などの組合となり、文字通り、フリー(自由)、メーソン(石工)という意味であった。18世紀頃になると、貴族などのハイソサエティの"自由、平等博愛"を信条とする友愛団体へと移行し、西欧社会にも広まっていくことになる。現在でもなお、その影響力は強く、世界的に活動している結社だ。この時計はフリーメーソンのリーダーのために作られたものだ。独特の正三角形のケースのベゼル部分にはチェーンのレリーフが施されている。ダイアルには、水平器・月・柱・槌・コンパスとのみ・ドクロ・切石と斧・曲尺・太陽・こて・三角定規と目、というユニークなマークが記されている。これらはそれぞれに意味を持つシンボルであり、たとえば12時の位置にある三角形と目は、"光の三角形"で神を象徴し、三位一体を意味している。"目"は神を表す太陽であり、そこから光と生命が生まれることを意味する。さらに、「汝を愛せよ、仲間に助力を与えよ」というモットーが記されている。
990シリーズ
220万円
21世紀に向けて"人の心を豊かにし、感性を満足させるブランド"をコンセプトに作り上げられた「990シリーズ」は、気品と格調を持つゴールド・ウオッチだ。これまで純金は柔らかすぎて、時計に使用するには不適当な素材だった。ケースが柔らかすぎて傷つきやすいということは、時計の命であるムーブメントに加わる衝撃も大きいということだ。しかし、ウオルサムは純金に1%のチタニウムを混ぜることによって、18金よりも硬く、純金の質感を持つ素材を開発することに成功した。インデックスにダイアモンドを施し、シンプルでありながらどこまでも優美なこのニュー・ゴールド・ウオッチ、これが990シリーズである。
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